旧函館区公会堂は、明治40年(1907)8月の大火により、町会所・商業会議所が焼失してしまったため、住民の集会所・商業会議所の事務所として明治43年(1910)9月に竣工されました。この時、住民有志による「公会堂建設協議会」が発足されますが、大火後であったこともあり、寄付金が当時の金額で数千円しか集まりませんでした。そこで、当時の豪商「相馬哲平」氏へ相談をした結果、5万円の寄付があり、約5万8千円で建築することができました。(設計は函館区技手小西朝次郎、監督は函館区技手渋谷源吉、請負は函館区民の村木甚三郎)大正12年(1923)に商業会議所の事務所が移転したのち、演奏会や展示会の会場など広く函館市民に利用されました。また、明治44年(1911)に皇太子殿下(後の大正天皇)が北海道行啓の際の宿泊所として、大正11年(1922)に摂政宮殿下(後の昭和天皇)、平成元年(1989)には当時の天皇皇后両陛下の北海道行啓時にも使用されました。
公会堂の大きな特徴
①西洋スタイルを日本の技術で表現した、明治洋風木造建築の代表的なものです。
②コロニアルスタイル(正面から見て左右対称形で左右に切妻破風飾。コリント様式の円柱で支えられたバルコニー。屋根裏窓)
③桟瓦葺木造2階建。建築意匠や建築技術にすぐれた特徴があります。
昭和49年(1974)、国の重要文化財の指定を受け、昭和55年(1980)から3年間4億円で修復工事が行われ、昭和58年(1983)から一般公開されております。
旧公会堂の歴史
■明治43年(1910)
市民の集会場、商業会議所の事務所として建てられました。
建築費用約5万8千円のうち5万円を初代相馬哲平が寄附しました。
また、翌明治44年(1911)には皇太子(後の大正天皇)が北海道行啓の際に宿泊所とされました。
■大正期から戦時中(1912-1945)
商業会議所の事務所が移転し、会議、お祝い、演奏会や展覧会などの会場として市民に広く利用されました。
昭和2年(1927)には作家の芥川龍之介と里見弴が講演のため訪れています。
■戦後の混乱期(1945-1956)
戦後の混乱期には軍の司令部や病院などとしても使われ、その後は海難審判所や営林局の事務所が置かれました。
昭和29年(1954)の洞爺丸台風の際には1階大食堂で海難審判が開かれました。
■昭和32年~54年(1957-1979)
再び市民の集会場として利用されるようになりました。
車寄せは元に戻され、外壁の色はピンク色と白色に塗り替えられました。
明治期の洋館として歴史的価値を評価され昭和46年(1971)に道の有形文化財、昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されました。
■昭和修理(1980-1982)
昭和55年(1980)から昭和57年(1982)にかけて初めての根本的な保存修理工事を実施しました。これまでにどのような建物の改変があったのかを念入りに調べたところ、旧公会堂の外壁の色は初め青灰色と黄色であったことや館内の部屋割に変更があったことが分かりました。
■昭和修理以降(1982-2018)
市民および観光客向けに建物を一般公開するようになりました。
また、当時の社交界の華やかさを体験できる貸衣装サービスも行われ、年間約15万人が訪れる市内有数の観光名所となりました。
そのほか音楽団体によるコンサートや地元高校生による野点など生涯学習施設としても使われました。
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